Column 2


2011年04月23日(土)
遠くを見よ

思いつめて憂鬱になっている人には、わたしはただひと言、こういってあげたい。
「遠くを見よ」と。
思いつめた人は、ほとんど例外なく、ものを読みすぎる人である。
しかし、人間の目は、そういう近距離を長く見られるようにはつくられていない。
広々とした空間に目を向けられるとき、目はくつろぎの状態にある。
星や海の水平線を眺めているあなたの目は、完全に緊張から解き放たれている。
目がやすらげば、頭は自由になり、足どりもしっかりしてくる。
からだ全体がくつろぎ、内臓までしなやかになる。
しかし、決して意志の力でしなやかになろうと試みてはいけない。
あなたの意志を自分の中にさしむけたのでは、すべてが歪んだ緊張の中におかれてしまい、
ついには息がつまりそうにでもなるのがおちだ。
あなた自身のことを考えるな。
遠くを見よ。

〈中略〉
本当の知識は、自分の目のすぐ近くにある小さなものには決して戻らない。
なぜなら、知るというのは、どんなに些細なものでも全体とつながっているということを
理解することであるから。
どんなものでも、その存在理由を自己のうちにはもっていない。
したがって、正しい動きというものは、われわれを自分自身から遠ざけるのだ。
そのことは、目と同じように、精神にも健康をもたらす。
こうしてあなたの思想は、その領分であるこの宇宙で安らぎを得るし、
また万物と結ばれている身体の働きとも調和するであろう。


イメージ
       晩年のアラン

 本名は、エミール=オーギュスト・シャルティエ(Emile-Auguste Chartier,1868-1951)はフランスの哲学者。アラン (Alain) というペンネームで知られる。ノルマンディ地方のモルターニュ・オー・ベルジュで生まれた。
 教鞭を執ったリセでは、過去の偉大な哲学者達の思想と彼独自の思想を絶妙に絡み合わせた彼の哲学講義は、学生に絶大な支持を受け、彼の教え子達の中からは、後の哲学者が多く輩出されている。女流哲学者のシモーヌ・ヴェイユは彼の教え子のひとり。

 「遠くを見よ」 …ふとしたきっかけで、20歳になるかならないかの頃に愛読していたアランの言葉を思い起こした。半ば物置と化した書庫から『アラン人生語録』(彌生選書)を見つけ出し、読み返してみた(上に記したものは、他の『幸福論』の邦訳を参考にしつつ、意訳させて戴いたものである。)
 …忸怩(じくじ)たる思いも確かにないわけではないが、当時があるからこそ今があるのだと思う。
 そして今は、<中略>以下の部分を塾生に伝えていこう、共感してもらえるよう努めていこうと思う。




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